急がば回りこんでドロップキック

後藤あいといいます。

私のために祈らないで

てきおう‐しょうがい〔‐シヤウガイ〕【適応障害

ある特定の状況や出来事がストレスとなって情緒面や行動面で症状が引き起こされ、社会生活に支障をきたしている状態。精神疾患の一つ。

小学館大辞泉」編集部編『デジタル大辞泉小学館

適応障害と診断されて、1年半が経たんとしている。

苦しかったかと聞かれれば苦しかったと言えるけど、生まれてこのかた、苦しくなかったことなどないと、思い返せばそうも思う。

適応障害の原因とされた「仕事」は、休職、退職したことで払拭されるはずだった。しかし、休職と退職、つまり発症の原因から逃げ出したことで気持ちがカラリと晴れるかというとそういうものでもなくて、睡眠薬を飲んだのに一睡もできなかったり、寝れたと思えば夕方まで布団から出られなかったり、好きだったヒロシのネタを見ても笑えなかったり、突然涙腺が決壊したり、たまに電車に乗れば吐き気をもよおして途中下車したりした。今日は調子いいわと感じる日はあれど、完治する気配もなくて、そもそも、いずれ会社員に戻らなければならないという未来から目を背けるために、完治させようという気合いもなくしていた。

しかし、それと同時に、好きなことをしよう、と歓喜に満ちたようすで息巻く瞬間もあった。せっかく休んでるんだから!さながら排卵日前の水着女性のようだ。

でも、それより少し遅れてこの快活さ自覚すると、もしかして仮病を使っているのかもしれないこととに勘づく。そして、それを隠すように、大変な量の涙を流すの。「あー!うそです!うそです!!」って。

そう、私は仮病を使っていたかもしれなかったのだ。

病気と診断される前から、会社に行けなくなる前から、眠れないことはあったし、気分が落ち込むことも、集中力が途切れることも、人間に興味がわかない性格も、不精も、人生どうでもいいわと思うこともあった。軽々しく、鬱だわ―などという人間のことをかねてから軽蔑してはいたが、彼らと同じなんだろう。

病気を治すよりも性格を治すほうが、はるかに苦しいことであるのも、なんとなく察しがついていた。病気にすがって、このままずっと病気だったらいいなって。1年半ずっとそう思っていた。

<10000字越えちまったんで目次>

アウト判定
黄色い線の外側で知る生それ自体への歓喜
私の好きな岡村さん
周りの人
睡眠こそ宿命

会社から逃げ出して
私のために祈らないで

アウト判定

もともと打たれ弱く、面倒くさい性格をしていた。加えてゆとり世代ときたものだ。

感情的、ストレス耐性なし、手を抜きたがる、自意識が肥大しすぎている、などといったゆとり世代でない人からの小言を、苦笑いで受け流した経験のないゆとり世代はいないはずだが、私は、これの全てに当てはまるような、ゆとり世代でない人の依怙をゆとり世代の人に謝って周りたいほどの、いわば、ゆとり世代の申し子だった。

2014年、入社3年目の年末、映像系のデスクをしていた私は、プロデューサーという立場で、億円規模の割りと大きめな仕事を任された。所属していた部署には、定年を過ぎた契約社員のシニアとスタンドプレーで直帰大好きなミドル、それから私の3人しかいなかった。自らのキャリアにしては大抜擢だったが、決して私の能力を見込んでのことではなく、単純な人手不足による消去法での人選だった。それでも、キャリアに関する自己啓発本や、検索対策を万全にした意識高い系ブログのおかげで、3年目という立ち位置に妙な価値を見出していた私は、やってやるぞ!なんて腕をまくっていたのだった。

クライアントが優柔不断、クライアントのクライアントによる大どんでん返し、個人の携帯番号を教えてしまったことによるオールナイト、休日の実作業、自分に非がないことに対しての謝罪、脂ベトベトの頭と化粧がズルズルに溶けた顔を持っての打合せ。それらを経験したことのないビジネスマンはいないのではないかと思うが、「みんなそれを経験して成長しているんだ」という説得に似た真実は、私の耳には届かなかった。他人のことなんてしらねーよ、GWなしってありえない!なんて。

辛かった。助けてくれる人がいなくて、というか助けを求める術を知らなくて。ある日、自宅に帰って布団に入ると、根を張ったように、身体拘束されたように、動けなくなった。携帯を持ってこの現象を報告することすらできなかった。そして、それは1週間おきに、3日おきに発現するようになり、最後には毎日になった。

それでも責任はチリほどでも残っていたようで、無断欠勤することはなかった。夕方にやっと連絡、終業時間に出社をして仕事。お昼は、定年を過ぎた契約社員のシニアが、夜に私がそれを引き継いで終業時間から終電まで仕事をしていた。

これが1週間ほど続いたと思う、シニアがしびれを切らしたか、クライアントから小言を言われたか、または私の体調を心配してくれたか、2015年5月26日の出社早々の19時ごろ、シニアに呼びだされて、病院へ行けと言われた。もしかして病気かもしれないというのを微かに感じ始めていたころだった。

精神科に電話すると、多くのクリニックで予約が埋まっていた。そんなにも病人がいるのかと余計に具合が悪くなって、ようやく予約の取れた東中野の病院に行く。病名は適応障害精神安定剤睡眠導入剤の処方箋と、1ヶ月の休職を指示した診断書を持たされた。診断書を会社に提出すると、出社しなくてよくなるらしい。

任された仕事をやりきれなかったという結末、私や会社に対する信頼が失われたことへの屈辱、社内の仲間にしわ寄せがいくという罪悪、弱い人間だというレッテルを貼られたことによる自尊心の負傷、みずほ銀行への給与振込が途絶えることによる恐れ、ただ1枚の紙が最悪のエンディングをもたらしたと思った。それでも、病気の認定を受けたこと、身体拘束から血だらけで開放されにいかなくてよくなることは、少し嬉しかった。

その足で診断書を持って出社をすると、悔しかったか、悲しかったか、理由は分からないが涙が止まらなかった。理由の分からない涙はこれが初めてではなかった、というか日常茶飯事と化していたが、病気の症状だということを前日に精神科の先生から教えてもらっていたので、安心して泣いていた。しかし、それをしばらく静観していたシニアの上司が「泣いたって分からないよ!」と、近くで武闘家が瓦を割ったのかと思うくらいに突然、怒鳴る。定年を過ぎた人が感情的になるのを見たのは、その時が初めてだった。でも、もう、できれば一生、見たくないと思っている。

大江戸線で帰る。久しぶりに乗った夜の光が丘方面は、とても混んでいた。

黄色い線の外側で知る生それ自体への歓喜

忘れっぽいという性格を持つ私が、物忘れという適応障害の症状を手に入れたが、会社に行かなくてもよくなったことは忘れなかった。診断書を提出した日の夜、アラームをかけずに布団に入ったのも当然のこと。

1ヶ月の休職期間が終わりそうだという梅雨ただ中のその日は、型にはまった感じでしとしとの雨が降っていた。

伊集院静の白秋をふと読みたくなって、家から一番近い図書館へ。見つからなくて、悔しくて、あと医者に外に出ろとおすすめされたこともあって、次に近い向ヶ丘遊園そばの多摩図書館まで来ていた。ここではじめて蔵書検索をして、貸出中であることを知る。悔しい。次に近いのは、おそらく世田谷の砧図書館だ。都民でないので借りる権利はなかったが、一目装丁を拝んでやりたい気持ちだった。謎の使命感。

向ヶ丘遊園の駅へ戻って、上り電車が発着するホームで下り方面を、徒労感も相まって、ぼんやり、今思うと辞書に載りそうなくらい定番なぼんやりという感じで眺めていた。ロマンスカーが見えた。ただその時点では、ぼんやりしていたからそれが快速急行かもしれなかった。自宅近くの本屋にあった紙の時刻表で確認したから、私が見たのはロマンスカーということを知ったのだ。

私は、そのロマンスカーが見えた瞬間、飛び込みたいと思った。

死にたいと思った。

死にたいと思ったのは生まれて初めてのことだ。ふわーって、無意識で、黄色いラインを越える。降ったように。開いたように。死にたいと思い至る要因はぐったりするほど思い浮かぶが、なんかしっくりこなくって、おそらく私に認識できるように存在してはいなかった。あれだな、ブッダ菩提樹の下でパチっと目をあけた時と同じ感じだな。彼から話を聞いたわけではないから分からないが、たぶんそれと似てるやつだと思う。

でも、そこから、足がピタリと止まって動かせなかったんだ。怖かったから。こんなにも強く、生きたいと思ったのも、この時が初めてだった。

私、生きたかったんだ。知らなかった。危ないとこだったぜ!!!

心の中でそんなことを思って、死ななかったこと、生きていること、それ自体が嬉しくてたまらなくなる。地獄にいるような精神状態でも、自分に嫌気がさしても、病人でも、みんなに迷惑かけても、仕事なくても、美人じゃなくても、生きて帰る先が5畳のゴミ屋敷風ワンルームでも、いい。そんなのとるに足らないものだ。なんでもいいから死にたくない。生きていたい。

そうそう、死ぬ勇気を持ち合わせていなかったのでもない。割りと猛スピードで迫ってくるロマンスカーは当たったら多分痛いし、痛いの嫌だし、電車が遅延することで小田急沿線のイライラツイートが乱舞するのも心苦しい。ここで人生が終わってしまうこと、終わらなければ、いつか一発逆転ありえるかもなんていう予測みたいな願望みたいなものもあったんだろう。でもそんな根拠のないこと、生きたい気持ちの理由にはなっていなかった。そもそも、しがみつくにはフニャフニャすぎるでしょう?

死ぬこと以外は大した問題でないと、その時、本気でそう思った。すぐに「いや、生きてる時も普通に大問題あるだろ」と具体例がたっぷり持ち上がって、この自称・神秘的な名言はすぐに消え去っていったんだけど。とにかく不思議な気持ちだったなあ。

とうに私の前から過ぎ去って、何もなかったように、血の一滴もつかない例のロマンスカーがそろそろ新宿あたりに到着しているころ、私の意志が及ばないところにあった生死のダブルスタンダードが、すーっと一緒になって、ブスな笑顔を作る。これから私は図書館に行くのだ。

ちなみに、この日からしばらくして、流行っていた音楽配信サービスのAWAによる2ヶ月無料キャペーンでフラワーカンパニーズの深夜高速を見つけた。深夜の公園で1曲リピートで聴きながら吐くまでブランコをこぐという習慣ができあがり、カラオケに行けば熱唱したが、たいていの感想は病んでるね〜(笑)だ。私のせいだろうが、歓喜というのは往々にして伝わらないものである。

私の好きな岡村さん

中学生のころからナインティナイン岡村隆史さんが好きだった。

彼に憧れて、会いたくて、進路相談の用紙にお笑いの養成所入学の為高校進学なしと提出したくらい。ちなみに、それから担任の先生は授業中、この問題分かる人っと挙手制の発表を促したとき、私にだけ大喜利的な答えを求めるようになり、答えられずに高校へ行った。今思えば先生はかなり戦略的だったと思う。「やめとけ」と説き伏せられるより、何十倍も効果があった。

夏、6月末だった休職期間が3ヶ月伸びていた7月末。その彼が27時間テレビの総合司会をするというので見た。24時間目くらいに1時間11分踊っていた。

私は、彼の姿を見て励まされようと思っていたのだ。でも勇気なんてもらえなくて、彼と私の差を、努力している人とそうでない私の差を、不快なほど、絶望を醸すほど、実感することとなった。

私は病気になって仕事をお休みしていたが、彼もまた病気になって仕事をお休みしていたことがあったから、好きな人とシンクロしているような気持ちになっていたのだけど。スターはスター。私とはまるで違う。中学生の頃、最終学歴を変えざるを得なくなったほど実感したはずの彼と私の違いを、すっかり忘れてしまっていたようだった。面白くて格好いい岡村さん。岡村さん!!嫌いになりそうだよ!!!

悔しい、悲しい、腹立つ、かっこ悪い、おバカ、妬ましい、全て当てはまるようで全て当てはまらない。猛スピードでジェリーを追いかけていたトムが崖から足を踏み出す時、落下してしまう前に少しある間、あの感じに似ている。ということは、他人から見たらコメディ? TVを主電源から切った。

テレビが消えた私の部屋(5畳)は、この世で最も暗くて湿った、社会から隔絶された空間となった。お台場からは、その存在を確認することができない、毛がまばらに抜けたネズミが幅を利かす廃工場よりも、ドラッグのやりとりをしている銃砲店の奥よりも。

しかし、今振り返ると、そう思うことこそが、今日を生きる力になっていた。

私がこの世で最も弱くてダメな人間だという諦めは、1日中天井を見ている生き方を肯定する。電気が止まっても、会社に行かなくてもよかった。だって私はダメ人間。希望が存在しえないからこそ、死んだり落ち込んだりする必要もなくて、まるで平穏でのどかな田舎町で過ごしているような気分だった。

治したい、でも治らない、辛い、というのは、治せるという自信を、無意識にでも、ほんの僅かでも持ち合わせている人の考えることであって、自分にはおこがましい考えだと思うようになった。すると、先生から言われた通りに薬を飲んだり、寝る前にカモミールティを淹れたりすることが、急に恥ずかしくなる。私は、治そうと思っている、治ると思っている。きゃー。

薬をゴミ箱へ捨てて、マグカップを二重したビニール袋へ入れて床へ投げた。そのあと、衝動的なのか、いよいよ止む終えなかったのか、荷造りをして実家へ帰った。愛され生活が待っている。

周りの人

実家にいる私は、穏やかだった。

お馴染みだったはずの夫婦喧嘩を見て泣いたこと、見栄から生まれたような最新機種の父ちゃんのスマホのに入った、私と同じくらいの年齢で、1枚1000円くらいのつけまつげをした女からの着信を見たこと以外は、実に穏やかだった。夜は眠れるし、朝は起きられるし、ご飯もたっぷり食べた。近所のマックスバリュへ買い物にも行った。土日に母ちゃんとタイ料理屋を開拓することもした。10kgの体重増加は、穏やかの証。

母ちゃんの運転で、静岡の浜松から東中野の病院まで小旅行したのも楽しかった。病院にいた躁チックな人を見て母が「やっぱり精神科って、ちょっと変な人がいるねー」という言葉に、大声でブチ切れたりもしたが、穏やかだった。

私と同じ病気をした先輩にも出会った。なめらかな手つきと笑顔をもっていて、治療法やストレスの回避法、メンタルの管理法などをたっぷり教えてくれた。大学のころの友達には素直に病気のことを話したが、浜松に帰った時に会った高校のころの友達には、丸の内でOLをしていると嘘をついた。両親は、バリバリ家事の手伝いをさせるし、朝も叩き起こされる。病気の前のままだ。

とにかく、誰もが、普通だった。

イオンのフードコートや深夜の麻雀大会にあった関係がそのまま続いていた。普通にしてくれてありがとうというほっこりとした気持ちも起こらないほどに自然で、布団の上で目をつぶる瞬間に、今日は楽しかったな、と振り返るだけだった。

いよいよ仮病説が濃厚になってきたか、そもそも大した病気ではないのか、いやいや、周りを良い人に囲まれたんだ。小さい頃から、良い人が周りたくさんにいて、病気になって穏やかに始めたライターの仕事で出会ったクライアントは、一人残らず素敵な人たちだった。良い人に囲まれるということ、それだけが私の普遍的かつ永久的な強みであり、自信だ。自信じゃないか、他信?とにかく、マジ感謝、状態である。

だから、いつか、彼らが私のように倒れた時、同じ振る舞いをしようと心に決めている。自然。平和。森っぽい感じ?

睡眠こそ宿命

私の病人期間は、常に睡眠の悩みとともにあった。

まず3日ほど眠れず、やっと眠れたと思ったら1時間で目覚める。時期が過ぎて毎晩眠れるようになると、18時間睡眠、これが整ってくると、今度は眠るのに3時間を要し、1時間で目覚めるようになった。もちろん、生活リズムなどあったものではない。

1年半でやったことは何だと聞かれれば、素早く、ぐっすり眠ることを探求する、それだけかもしれん。

★★★ カモミールティ

まず、カモミールティーを飲み始めた。

カモミールティーには、リラックス・安眠効果があるらしい。水道水を100円ショップで買ったマグカップに入れて電子レンジで温める。それからカモミールティーのバッグを浸すが、この順番を間違えてティーバッグとともに電子レンジに入れると、ホチキスが発火する。今までもレトルトカレーとかアルミで包んだマフィンとか、いろんなものを発火させてきたが、毎度ぐったりするね。これは、要注意。無印のカモミールオレンジピールはホチキスがついていないので、おすすめ。

ミニキッチンのオレンジの灯りだけをつけて、元気だった頃に買った11万の椅子のリクライニングをゆるゆるにして飲むのが楽しかった。洋書なんて読めば、それっぽっくて最高。マグカップを洗うのが嫌になって、もうしばらくやっていない。

★★☆トゥルースリーパー

つぎに、マットレスと枕を購入した。

私の家はベッドを置ける広さがないので(といっても布団を畳むことはしなかったので本当はベッドも置けるのだ!)いつ買ったか分からない、両親がうちに遊びに来たときに置いていった、どぎつい花柄をあしらったうすーい布団で寝ていた。好きなテレビ番組ランキングには入らないものの、視聴時間はそれ相当だったショップジャパンの番組でやっていたトゥルースリーパーが愛読している新聞にセール中という広告を出していたので買った。褒めるでもなく、批判するでもない、2万2千円らしい寝心地。

☆☆☆ 眠くなったら寝る

眠くなったら寝るというメンタルにアプローチする作戦は、眠らなきゃ、という気をもむ必要こそなくなったものの、3日を1サイクルとするリズムは医者に真っすぐに却下され、頓挫した。

★★★ 呼吸法

呼吸法も試した。

布団に入って、目を軽くつむり、脱力する。上手く脱力できなかったらその部分に一度力を入れて緊張を作ってから、抜く。それから1分4呼吸(吸って、吐く)まで下げて、15分。これは、私調べで1時間睡眠くらいの効果があった。やる日とやらない日では、寝起きのスッキリ感が違う気がするので、これを眠気を掴みに行く作業と呼んで、今でも実践している。

★★☆ Night Shift

2016年の春、愛用していたiPhoneブルーライトカットの機能が実装された。ついにスマホまでタバコのヤニに侵されたのかと思うくらい黄色くなって私の目は守られた、と思う。

★★★ アロマオイル

仕事で出会ったかたに眠れないことを告白すると、彼女はおもむろに席を立ち、アロマオイルを持ってきた。

マジョラムというやつとマンダリンというやつ。ディフューザーなどうちにはないので、ティッシュに2滴出して、高知ノボルみたいだなあと思いながら鼻に押し付けて真っ直ぐ吸い込む。別の種類も揃えようと、貰ったオイルのブランドを調べると、恐ろしく高価だった。いただきものは調べちゃいけないと後悔して、楽天スーパーセールで安くはなっていたものの、そもそもそんなに高くない別のブランドのオイル(ラベンダーとカモミール)を買った。精神状態によって、いい匂いに感じる時と気持ち悪くなる時があるので、使い分けている。

★★★ 睡眠薬

初めて精神科に行ってからずっと飲んでいる睡眠薬。入眠に効くもの、途中覚醒に効くもの、飲み過ぎを防ぐようにリカちゃん人形の靴よろしく、めちゃめちゃ苦い味がつけられているもの、これまでで4種類の睡眠薬を試した。

こいつらが一番の功労者だと讃えることができるが、今はこいつらによって苦しめられていることに気づいている。私は睡眠薬に依存している。

用法以上に服用することへの依存。飲んだのに眠れない、途中で目覚めてしまう悔しさが苦しくて、もう一粒飲む。それでも眠れなくてもう一粒。意思が届かないくらいに、まぶたを閉じずにいられなくなるくらいになる。これこそリラックスの極限ぐらいに感じていた。

こうなると、処方箋で貰った薬がすぐに切れてしまう。どうせ飲み過ぎで怒られるのだからと病院に行くこともできずに、ドラッグストアを5件はしごして、買いためたこともあった。ドラッグストアの睡眠薬は、1回に1箱しか売ってもらえないんだよね。それじゃあ不安だった。眠れなかったら怖いというよりも、足りなくなったら怖いという感じだった。市販薬の効き目などどうでもよくて、薬を飲む行為そのもののために、薬を手に入れていたという感じ。何のために薬を飲んでいるんだか、すっかり分からなくなっていた。私にとって睡眠薬は、精神安定剤より精神安定剤なのだ。

このままではまずいと勘づいて、むりやり、恐怖と戦うように、依存を断ち切るように、量を減らす。眠れる。眠れるんかい!

わたしには、寝るということに対して、宿命がある。

2015年12月に休職していた会社を辞めて、4ヶ月が経った頃から、火曜日だけ、フルタイムのバイトを始めていた。

クビになった。

ちょうど1年前の身体拘束が再び起こるようになって、たった週1のバイトにも穴を空けるようになる。そして、お詫びの電話を入れるのが翌週月曜。それが2回、つまり2週続いたことが原因だった。

ようやく取り戻しつつあった信頼や自信は地に落ちて、それとともに精神状態も引き戻されることを覚悟していたら、その心配をよそに、とても元気になった。バイトはストレスだったのか、ずいぶん分かりやすい奴だ、なんて。毎日が楽しくて、バンド活動をしたり、今までより多めに仕事をしたり、RIZAPに通い始めたり、それにプラスしてフィットネスジムにも通うようになったりした。相変わらず眠れてはいなかったが、心は元気だった。友人に「元気になったね、よかったね」と言われるようにもなった。

久しぶりに病院に行く。病院につくと、負のオーラをまとった人が待合室にいた。大丈夫?なんて一人ひとりに声をかけたいくらいだった。そろそろ、卒業認定かもな、なんてウキウキしながら、しっとり呼ばれた私の名前に、目を見開きながら元祖応援団みたいな返事で答えて診察室に入る。笑顔は朝から止まっていなかった。

机にひじをつきながらタメ口を交えて先生と話をしていると、今の私は、どうやら、おかしな状態にあるらしいことを伝えられた。「最近よく買い物してるでしょ?」と言い当てられて、占い師かよ、なんて思ったが、どうやら躁状態にある人の特徴らしかった。おいおいおーい。病気かよ!こんなハッピーな病気あるかよ!と侮蔑したくなったが、そのままにしていると、また以前のように気力が地に落ちるらしい。それは!!こわい!!!!

すっかり飲むのを辞めていた安定剤と睡眠薬を続けるように約束させられ、帰る。帰り道にあったベックスでアイスコーヒーを頼んで窓際に腰掛ける。ガラスに映った私の顔面を見ると、笑顔が消えていた。躁、これにて終了。

会社から逃げ出して

一生働かなくてもよいお金が手に入ったとしてもずっと働いていたいという人がいるが、これは私の頭で理解できる範疇にはない概念である。仕事によってもたらされる、社会との結合や自己実現による幸福こそ理解できるが、そんなの生きていく上で、あってもいいけど、なくてもいいじゃない。

病院の帰り、明大前で、かつての会社の先輩を見かけた。私が辞める直前に生まれた彼の息子は、私が見せてもらった写真と同一人物とは思えないくらい、なんというか、人間になっていた。私が過ごした1年半という時間の成果だと思うと、人類皆平等などという指針は、にわかに信じがたく、腹立たしかった。

心拍数と体温がぐわっと上がるのを感じて、もちろん近寄って話しかけることなんてできなくて、私は手に持っていたスマホで会社名を検索し、ホームページを見た。そして、私が会社に通っていたころ進んでいたホームページリニューアルプロジェクトのことを思い出す。そのプロジェクトは完了しているらしかった。業務内容を紹介した動画がエンベットされていて、再生ボタンに向けて指が動く。スタンドプレーで直帰大好きなミドルや、子供を連れてさっきまで目の前にいた先輩、同期、社長、最近入社したであろう見知らぬ人までが出演して、自分の業務内容を、人間の身体では溶かすことのできないくらい分厚いオブラートで包んで語っていた。何の感情も抱けずに、腹立たしかった気持ちも収まって、見覚えのあるロゴが表示されてから動画は終わった。

会社のことを思い出すのは、初めてかもしれない。

定年を過ぎた契約社員のシニアは動画に出演していなかったけれど、まだ会社にいるだろうか。仲の良かった同期は今頃どうしているだろう。一人暮らしをすると言っていたが、結局どこに住んだのだろう。私の投げ出したプロジェクトは完了したのかな。知りたいと思った時には、すでに知る権利を剥奪されていた。剥奪じゃないか、放棄だ。

過誤であったか。甘えであったか。非行であったか。菓子折り持って会社を訪問しようか。ホームページに出ていた代表電話のダイヤルを押してみようか。私は、彼らへの謝りかたが分からない。謝る術も、謝る必要性でさえも。しかし、もう一生会うことのない彼らへ、謝ることができない私に何ができるかを考えるのは、彼らにとっても私にとっても意味があることのように思えた。

まだ答えは出ていない。彼らと彼らの家族が元気でいることとか、会社が儲かることとかを望んで願う、私は病院を卒業する、新しい道で胸を張っておく、そんなことを箇条書き。効果測定はできないけど、悪くはないんじゃないか?

任された仕事をやりきれなかったという結末、私や会社に対する信頼が失われたことへの屈辱、社内の仲間にしわ寄せがいったという罪悪、弱い人間だというレッテルを貼られたことによる自尊心の負傷……。

とにかく、後悔したらだめだ。あの振る舞いこそが、あの時の私だった。あれこそがあの時の私の会社であり、あの時の私の仕事だった。今は違うんだから。私のために、あの会社とあの会社にいた人たちのために、感傷しない、後悔しない。嫌いじゃなかったんだ。はじめから、最後まで、今も、これからも。

私のために祈らないで

この1年半、できるだけ、考えないように生きてきた。ドカっと空いた大きめの穴を、生活で埋めるように。穴を広げないように。何かを隠蔽するように。穏やかに。

でも、そろそろ、それもつまらなくなってきた。

ふつふつと湧き上がる。私はきっと、1年半、ひょっとすると生まれてからずっと、これをこっそり待っていた。仮病の疑いをいよいよ晴らすことができなかったのは、医者不信でも甘えでもなくて、このふつふつ感に執着してたからなんだ。私は、ふつふつ感をぶつけた先に見えるという景色というのに憧れている。まさか!私にははじめから自信があったんだ。そして、その景色を見るには「病気だからごめんなさい」カードを切っている場合ではないんだろうという結論に至る。少なくとも私の場合、大切にしていたこのカードが、ふつふつ感の妨げになっているようだ。

適応障害が治ったか治っていないか、もしくは仮病か、甘えかなんてどうでもいい。これは、私の病気が軽症だったからかもしれないし、医者からもらった薬や気の持ちようを変える心理療法を試した結果かもしれないけど、少なくとも、今の私は、そういうのを越えた、自らの意志というものを、感知できる。元気に働いていた時より敏感に、今まで感じられたことのないくらいに。そして、この意思は、どんな診断より、気の持ちようとか甘えとかいう他人によるどんな諭しよりも信頼できた。いな、信頼してあげようと思う。

ゆとり世代の申し子として、万年ぬかるみ人生を歩んでいた私に適応障害という割りと強めの雨が降ったおかげで、この一年半でカチカチに地が固まったような感じ。こう思うと、この1年半という時間、考えないようにと穏やかに過ごしていた時間は、歩きたい人生のために、重要な時間であったのかもしれないなあ。待ててよかった。痛みに耐えてよく(略)。

初診から1年くらい経った頃、通院頻度は月1に下がっていた。

月1の通院。躁状態を指摘された次の月、9月のはじめ。超忘却の彼方にあって、行くのを忘れた。特に病院から連絡があるわけでもなく、私が無断欠席をハッと気付いたのはそれから2週間後のことだった。その2週間後の「ハッ」で気付いたのは病院の予約ぶっちぎったことだけじゃなくて、薬断ちするのも、病名から解放されるのも、その決裁権は私だけが持っているということだった。

その権利を行使するのは、勇気のいることだ。私は今、その勇気を出したい、出せるかもしれないと、思っている。私は私を何かで今せき止めているだけで、それを外せばドバっと流れだす。一瞬だ。一瞬で変わるんだ。たぶん。

それでもまた、気持ちのコントロールができなくなったり、気持ちと身体が乖離したりするかもしれない。怖い。怖いけど、大丈夫。また意思を失くしたら、周りの人に助けられながら、きっとまた取り戻せる。大丈夫。今回がそうだったから。大丈夫、大丈夫。

大丈夫って、まじで大丈夫な気持ちになるから好きだ。